第27話  武士の釣「垂釣筌」について   平成15年8月28日


復 
 刻
  本

幕末に釣書と云えば、「何羨録」、「水中魚論丘釣話」、「釣客伝」、「釣魚ふきよせ」など当時政治の中心であり日本最大の人口を誇る江戸を中心にして書かれたものが多い。そんな中で東北の片田舎の庄内で後世に残る釣りの書「垂釣筌」が書かれていた。他の地方にも書かれていたことであろうが、残っていないだけなのかも知れない。

庄内では武士の釣であった事から昔から釣に関した事柄を、日記やその他の資料に断片的に書いてあることが多くあり、庄内釣を類推することが出来る。しかし、全編釣の事が書いてある本は陶山槁木が書いた「垂釣筌」が最初である。一地方の釣であった庄内の釣の資料が残り、明らかに出来るのは、当時の分筆に丈けた教養の持ち主であった武士の釣であったことである。藩主が武芸の一端としての釣を心身の鍛錬として位置付け「釣芸」として奨励したことからそれまで「遊芸」としての釣から脱皮した。

文久3(1862)に庄内藩郡代、普請奉行、寺社奉行等を歴任し、陶山七平儀明の長男として生まれ本名を陶山七平儀信は槁木(コウボク=18041872)と号し家禄300石取りの大身で現役を引退後「垂釣筌」という本を著した。庄内竿を完成させた名竿師陶山運平(陶山七平儀明の三男1809~1885)の兄であり、自らも竿、地針などを作っていた名釣師でもあった。事に地針については、丈夫で堅牢なV針(ヤキバリ)を研究しその秘伝を弟運平に伝えている。

「垂釣筌」に先駆けて書いた「釣岩図解」と対に見ると当時の釣を知るに当たっての貴重な資料となっている。「釣岩図解」の原本は失われており、模写や模写の模写の復刻版が明治から昭和初期に掛けての物が残っておりおおよその釣り場の見当が付く。

釣について「釣は10日で一度の大きい獲物が獲られるより、5日で5回の獲物があるほうが良い。今、得意になっているものは概して皆10日で一度の獲物をつかまえる輩である。評判を大事にするものでこのような人は本来の釣家と雅俗の別はあるにしてもこれは等しく釣が隆盛になったからであろう」と云っている。武士としての「釣芸」がエスカレートして大小にこだわる者も少なからずいた事を表現している。

上級武士として釣にも武士としてのたしなみを基本とし、本来の武士の心身の鍛錬としての「釣芸」をあくまでも守ろうとした気概が感じられるのである。



                               参考図書「垂釣筌」